飴屋さんに、あう。

8/1、P-Houseに行きました。
http://www.phouse-web.com/main/archives/000005.html
mixi上でいろいろな話は聞いてましたが、 実物見ると、「は〜〜〜」という感じです。
もちろんノックしてきました。
8/1 午後9時の時点では、飴屋さんは生きています。
ノックだけだったけど、確実に。

  ただ、ほっとして帰ってきました。

もう、この感じは行ってみないとわからないので、
東京の人はぜひ行くといいと思いました。

以下、自分用メモ。

大学のときに演劇やっていて、そのとき思ったのは、 演劇の限界はフィクションということにあるのでは?ということだった。
どういうことかというと、生身の人間がやっているのに、 やっているのは架空の話だ、ということで。
もちろん、ダンスのように筋のないものもあるし、 あるいは一時期のポツドールのようにあらかじめ決められた話から脱却をはかるものもあるけど、まあそれは例外的かと。
あと、フィクションじゃない方向に展開すればいい、というもんでもきっとない。
なにかの事実をそのままやり、それをそのまま観客が見る、という舞台はたとえば痛すぎて見れない可能性もあるし、きっと演劇から離れて行ってしまうだけのような気がする。

一方、美術の限界、というのもときどき感じていて、 というのは美術は主に「ノンフィクションを扱うジャンル」 だと思うのだけど(私小説とかもそうだ)でも使っている媒体はほとんど生じゃない。
作ろうと思ったときの感情や動機や事実は本物であっても、彫刻や絵画やビデオの画面に固定されたときに、生じゃないものになりがち。まあ、パフォーミングアーツは生の体を使うけど、むしろ音楽のライブやダンスに近い。

えーと、そうじゃあなくって・・・・・

常々そこの中間に、「生で生」な、なにかの表現があるんじゃないか、あるとしたらそれはものすごく強烈なものになるのではないかとか時々思っていたのだけど、今回の飴屋さんのものはそれそのものなんじゃないか、とか思った。

無理矢理近いものを考えると、スポーツとか格闘技とか冒険だろうか?
しかし、それらをそのままやるだけでは、やはりアートにはならないようにも思うし。あの展示は、いったいなんなんだろう。
あたまがこんがらがる。なんか今までみたことないなにかを見たような気がする。

ーーー追記ーーー
伊藤ガビンさんがあの展示をすごく的確に表現していたので、ここに引用。
「木でできたスペースシャトルじゃよ。
しかも無線が壊れてる。 」